太宰府の歴史

先史時代の太宰府の遺跡をはじめ、繁栄した古代太宰府、支配者がつぎつぎに代わる中世の太宰府とそこに花開いた文化、幕末の五卿の滞在と勤皇の志士や地元文化人との交わりなど、歴史の流れを紹介するとともに、太宰府の歴史を顕彰・再発見し失われつつある記憶をつなぎとめる取り組みが、江戸時代から行われていたことや、歴史文化を活かした事業をとおして、本市の地域性・風土が形成されてきたことを紹介します。

水城・大野城の築造 


南西上空から見た太宰府

 663年、百済(くだら)救済のため筑紫にいた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)のもとに、白村江(はくすきの/はくそんこう・韓国西岸)での大敗の知らせが届きました。そして続々と帰還する兵士や、亡命してきた百済人たちを迎えたのです。
   唐(とう)・新羅(しらぎ)の侵攻のおそれが高まっていく中、日本は664年、太宰府地域の平野をふさぐよう、巨大な堤「水城(みずき)」をつくり、さらに翌665年には、北の大城山(おおきやま・四王寺山・しおうじやま)に「大野城(おおのじょう)」、南の基山(きやま)に「基肄城(きいじょう)」を築きます。ここを最前線として、大陸の脅威と正面から向きあおうとしたのです。このとき、辺境を守る「防人(さきもり)」、情報伝達のための「烽火(のろし)」が整備され、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけては、山城が築かれました。
   そして、この歴史的な大事件をきっかけに、日本は東アジアを見すえた国づくりへと進んでいきます。
※本文は『太宰府市市制施行30周年記念 まるごと太宰府歴史展図録』(平成24年発行)より転載

他の歴史をみる(画像をクリックしてください)